弧を描くこと
"何を"描こうかな。とふと考えるとき。
寝るのも惜しいくらいに、心に残るものを描いてみたくなる気持ちになる時もあれば、何を描けばいいのか全くわからなくなり、迷子になる時もある。
本屋や図書館で色々な画集と睨めっこしたり、
美術館に出向いて、偉大な巨匠たちの名画を眺めてみたり、
はたまた街中のギャラリーにお邪魔をして、新鮮な作品に刺激を受けてみたり。
また、あてもなく川沿いや住宅街、夕餉が香る路地裏などを歩きながら、何かを見つけようとする。
でもそうそうその“何か”は舞い込んでこないものです。
そういう時は、いつもは聴かないジャンルの音楽を聴いてみたり、料理をしてみたり、アロマの香りを纏ってみたり、ボタンを取り付けてみたり。(ちなみに好きなボタンに変えるのが最近の流行りごと)
少し道を外れていると、ふとまた“何か”に出くわすときがあって。
きっとその時が、一番ワクワクする時でもあり、そこまで辿り着くのが苦しみの時でもあるような気がします。
“何か”が決まれば後は、自分の世界。
僕の場合は、軽いスケッチなどの後、あとは黙々とペンを使い、弧を独りで回しながら描いていきます。
制作の刻は、孤独ならぬ"弧を独りで描く"時間。
なるべく外部を遮断して、その時だけは自分の世界に独りだけ。
決していつも楽しく感じているわけではなく。
と言って、嫌になってしまうこともなく。
どれだけ、淡々と黙々と弧を回していくか。
焦らないように、ゆっくりと。
繊細に、でも時に大胆に動かしながら。
時々想うことがあります。
サイズが大きければ大きいほど、永遠のように感じる制作の時間。
そして、弧を独りで回している自分が、少し生きていることと重なる気がするな、なんて。
必死に進んでいたつもりが、また同じ景色や感情に戻っていたり。
グルグルと考え続けて、結局何も進んでいないと思ってしまったり。
いつの間にか、見えないナニモノかと比べて焦ってみたり、落ち込んでみたり。
"弧"の上で回っている時間、日常では、よくそんな事ばかりを感じてしまっていた時期もありましたし、今もその感じ方は時々訪れます。
でも描いていると想うのです。
絶対に同じ場所に居ることはなく。居られることもなく。
どんどんと描かれて広がっていく世界があること。
思いもよらないことが、画面の中で起こるときもあること。
そんな世界に今、私たちは在ること。
そこに辿りつくまでには色々な感情と対峙します。
自分の内面のことでもあれば、外部からの言葉や態度や、目には見えないものでもあります。
それは喜びでもあり、寂しさでもあり、苦しみでもあるけれど、幸せなことでもあります。
みんなそれぞれの弧を描き歩みながら、感じ取って、近づいたり、離れたり、重なったり。
出会える弧と出会えない弧があること。その弧すら気付けないこともあること。
それを感じられた時、描くことをもっと愛おしく感じられるようになったと思っています。
まだまだ未熟者で、先は長く、何が変化し、起きていくかも分からないです。
でも現在感じながら動かしている"弧"は、またその先の”弧”と繋がっていきます。
ゆっくりでもいいのです。
消えそうなぐらい薄くてもいいのです。
少しヤケになって力強くてもいいのです。
それでも弧を描いていくこと。
それが何重にもなったとき、そこにまた新しい世界が広がっていくのだと思います。
もしこの文章に、絵に、目を通して頂いた方が、少しでも何か心に残して頂けたなら。
そして、少しでも弧が重なることができたなら、私は嬉しく思います。
感謝を込めて。
tomo.

Comments