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Diary

日々のこと。想ったこと。何気ないこと。気づいたこと。気が向いた時に綴っていきます。

 

最近、ふと思い出したことがありました。

少し長くなりますが、もしよければお付き合い頂けると幸いです。



2009年の風。

今でもはっきりと覚えている、不思議な風のお話。


2008年の秋から、翌年6月までアメリカに行っていたボクは、帰国した後、少し息詰まった時期があった。

たくさんのエキサイティングな経験を持ち帰り、待っていたのはあまりに現実的な日々。

経験した心がピリピリとしながら、帰国後の数年は父の作品展も重なり、その手伝いに入る。

すぐに組織への就職も行わず、世の中の当たり前の流れというものに反しながら、自分に納得と言い訳をしながら、何とも言いようのない焦りも感じながら、過ごしていた。


そんなある日、祖父が

「福島県に行きたいので、一緒に行ってくれないか」と誘ってくれた。


福島県原町。


戦時中、祖父が青春時代を過ごしていた街。

祖父はそこに、飛行隊の整備兵見習士官として赴任していた。

以前から、話しには聞いていた場所。

ぜひ自分の目でも見たいと思っていた。

そこで慰霊祭があるという事で、どうしても行きたいという祖父の気持ちを聞き、お供することになった。


祖父はその当時、あまり体調も良くなかったので、ゆっくりと焦らず電車で行くことに。

道中片道4時間ちょっと。

当時から祖父には良く会っていたけれど、こんなにも祖父と2人だけで過ごす時間は初めてだった。

駅弁を上野駅で買って持ち込んだ。

特別多くを話すことはなかったけれど、アメリカで経験してきたことや、最近のことなど列車内の隣り合わせで会話した。

少し気恥ずかしい様な、でもなんかその空間が嬉しかった。

窓に流れいく景色は、常磐線の景色。

北へ向かう列車は、初めて見る景色でワクワクした。

穏やかな青い空の日、知らない町の穏やかな光景、窓から入ってくる風、すべてが心地良かった。

この1年半後に、東日本大震災でこの一帯が未曾有の事態になるなんて、これっぽっちも想像つかなかった。

原町の駅(駅名は原ノ町)は、小さな駅だった。

とても静かな印象だったのを覚えている。


そして到着すると、祖父が長い間親交していた方が出迎えてくれた。

笑いシワがくっきりとしていて、きっといつも笑顔でいる方だ。

初めましての若者にも、穏やかに優しく話しかけてくれた。


宿に荷物を置き、祖父が行きたがった場所は病院。

数年前までお元気だった祖父の知人が入院しているというので、一緒に向かう。

病院は戦時中、野戦病院の場所だったようで、改装されながら今も病院として残っていた。

院内に入ると、自分の住んでいる街では経験したことのないような不思議な空気を感じた。

重みというか、どこか冷んやりとした、ピリッとした空気を感じたのを覚えている。

入院された知人の方は、思ったよりも病状が悪く、ほとんど意識も朦朧としていた。

でも祖父が来たのが分かったように見えた。そして喜んでいるように見えた。

ボクも少しだけご挨拶させて頂いた。

手を少し握らせて頂いた。

温かい温度と、微かに優しい反応を感じた。

少しの時間でしたが、このように繋がれたことに感謝を込めて、「ありがとうございました」。


その夜は当時の関係者の集いの会が行われた。

当たり前だが、皆さんも祖父と同時期に青春を過ごし、この街に思い入れが強く、そして久々に会う同志と嬉しそうにお話ししていたのが印象的だった。

中には当時祖父たちがお世話になっていたお宿の娘さん(失礼ながら、もちろんもうおばあさんのお歳だったが、当時皆さんには妹さんのように可愛がられていた方)もいらっしゃって、ボクも少しお話しさせてもらった。

その方の存在は、祖父からも聞いており、お会いしたことは無かったけれど、上品で凛とした姿と笑顔の中に強さを感じ、大和撫子の印象を受けた。

その方は、次の世代にも当時の経験を残すようにと本も出版されていたり、戦争ドラマなどがある時は俳優さんがお話しを伺いに来るなど、積極的に後世にご自身の経験を伝えられていた。


それまで「戦争は悲惨な時代」とボクは決め付けてしまっていた。いや、それは事実だと思う。

国という大きな枠の中で、人同士が戦い、殺し合いをするという状況は悲惨。

そしてその多くの犠牲になるのは、当たり前の日常を過ごしていた人々。

祖父母たちもそのように感じていたのではと思っていた。

でも祖父たちにとっては、暗い時代の中に、たまたま青春という時間が重なった。

皆さんのお話を見聞きして、きっとそうなんだと気付かされた。

時代の背景は色々あれど、青くて眩しくて、若々しい気持ちはどの時代も変わらないと思った。

そしてそれが悲惨で残酷な時間でも、消されてはいけない、それぞれの青春時代の記憶。

祖父たちの想いを聞ける場にほんの少しの時間でも、ご一緒出来たこと、心に刻めたことを、正しい言葉かは分からないけれど、嬉しく思えた。



集いの会が終わった後。

その日の心配事は、ご用意頂いた夕飯を祖父がほとんど食べられなかったことだった。

ボクがほとんど2人分を頂いた。

お箸が進まないことに、横目で心配しながら、さっとお皿を交換した。

いくら若かったボクも、十分にお腹がふくれた。

部屋に戻り、聞いてみると疲れもあり、あまり食欲もなかったとのこと。

きっと長旅で疲れもあっただろう。

「ちょっと外の空気吸ってくるね」

そう言って、部屋を出た。

なんでもいいので少しは食べさせた方がいいと思い、近くのコンビニへ。

祖父の好きな芋けんぴや、かりんとう、キャラメルやプリンなどを買った。

今思い出しても、子どもみたいな発想だ。

でも祖父は好きなものは口にするので、案の定少し食べてくれた。

ボクは、少しは口にしてくれてホッとしたのを覚えている。

今にしてみれば、きっと孫がすごく心配してるので、口にしてくれたのだと思う。



次の日は、今回の目的の慰霊祭の日。

参加者にはバスを手配して頂き、飛行場の跡地を巡った。

穏やかな田舎景色。

出発直後、平和ボケした若者には、のどかな場所で気持ちよく感じていた。

でも行く先々で見ていったのは、戦争の爪痕。

というよりも、戦争に向かう若者たちの爪痕。

原町では飛行訓練を行い、若い飛行兵を次々と戦地へと向かわせたという。(南相馬HP/原町の歴史から戦争と平和について考えよう)

そして祖父が整備担当した飛行兵の方も、何人も戦地へと飛び立ったということだった。

その中には特攻兵として、生きて帰れるという目標も無いままに飛び立った方もいたという。

何より、当時の自分よりもはるかに若い方達が、この土地から命をかけて、大切な人たちと別れ、死に向かって行くこと。

それがどんな気持ちだったのか。

ありきたりかもしれないけれど、胸が苦しくなった。

その痕跡が目の前にある分、余計に心が締め付けられた。

そして、それが当たり前にあった時代を想像すると、どんどん胸の鼓動は早くなった。



慰霊祭が始まる。

昨日から変わらず、晴天の青空。

祖父の様に、当時この町で任務とともに青春時代を過ごしていた方々、関係者の方々に地元の方々、多くの方々が参列していた。

短い時間ながら、この町で見聞きしたことが自分の脳裏に走馬灯のように駆け巡っていた。

この数ヶ月前まで、アメリカの地に行っていたボク。

そこで得た経験は、かけがいのないもので、本当に貴重な時間だったと思う。

祖父もその経験を、とても喜んで聞いてくれた。

そして帰国後の数ヶ月後に、このような形で祖父の生きてきた一部を見れるとは思っていなかった。

当時はアメリカも敵だったんだなぁ、とぼんやり思った。


そして慰霊祭の途中、不思議な現象が起きた。

今でもはっきりと覚えている。

今まで風なんて感じない穏やかな晴天の日だった昼間、神主さんによるお祈りが行われはじめた刻、徐々に風が集まってくるのが分かった。

お供えされていたものや、テントなどがバサバサ音をたてた。

あまりそういうことは冷めている自分だと思うけれど、この時ばかりは何か違う感じがした。

まるで命を落とした若い兵士たちが、慰霊祭に合わせて戻ってきて家族に、仲間たちに、挨拶しているように。

大袈裟ではなく、こんなことが起こるのかと思うくらいの風だった。

周りを見回した。

でも祖父も含めて、皆さんは目を瞑って祈っていた。

ボクは上を見た。

やはり風が見えた。

きっとこの世界には、心を動かす、目には見えないモノゴトがあるんだと密かに思った。


帰りの列車の時刻。

迎えに来て頂いたおばあさんが、お見送りにも来てくださった。

やはり穏やかにニコニコしていた。

そしてお土産をご用意して頂いた。

たった一泊二日。

でも色々なことを見て、感じ、考えさせられながら、不思議な体験をした二日間。


帰りの列車、お土産の中に入っていたワンカップで祖父と少しだけ乾杯をした。

と言っても、祖父は一杯でやめた。

「また行きたいな。」と祖父は言っていた。

ボクはまた、ぼんやりと常磐線の列車からの風景を眺めた。



数年後、祖父は亡くなった。

それまでにも、祖父にはたくさん会いにいった。

祖父に頼まれて、戦時中のことをまとめた冊子制作も手伝った。

やっぱり祖父の青春時代だったんだと感じた。

たいした孫孝行出来はしなかったと思う。

もし、もう少し時間があったなら、もっと見せることができた成功や、出来たことや話せたこと。

そしてもう一度あの場所へ連れて行ってあげることもできたかもしれない。


でもボクには、あの日祖父と一緒に居て、見た風を絶対忘れないと思う。

そしてこれから出会う人に、機会があれば、経験した風の行方を少し興奮しながら伝えたいと思う。


制作デスクには祖父母の写真を添えている。

これからはゆっくりと見守っていてもらおう。


2021.08.15

日本の終戦から76年。

ボクは、今の時代が本当の平和と言えるのか正直分からない。

色々なところで、昔にはなかった、目には見えない問題があったりもする。

"生き方"や"幸せ"などに対し、それぞれ価値観を押し付け、勝手に優劣をつけてしまうこともある。

傷付く必要のない人が、たくさん傷付いたり、優しい思いやりがバカにされることもある。

心穏やかに暮らせない日々が、多々ある。

でも確実に言えるのは、76年前から現在に至る地点までに、ボクらの住む国は戦争という状況を経験していない。

それは祖父たちのように、青春と戦争が重なり生きていた人々からすれば、良かったと思っているに違いない。


生きるということ。

それは、日々の繰り返しの中に、幸福を感じたり、苦しみを感じたり、笑ったり、泣いたり。

別に意味などなくて、過ぎていく日々の繋がりだと思う。

どうせだったら、笑顔が多く、幸せと感じられる日々が多いことに越したことはないと思うけれど。

だって望んでいなくても、死という刻は皆平等に訪れるのだから。

だから今という時間の中で、まずは自分自信が、次に身近な人たちのことを大切に想えることができれば、

それは少しでも平和に近づくのかなと思ったりしている。




つらつらと長くなってしまいましたが。

少しでも祖父の過ごした青春時代と、自分が経験した風との出会いを綴っておきたくなりました。

ここまで見て頂いて方々に、感謝を込めて。


tomo.





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