top of page

Diary

日々のこと。想ったこと。何気ないこと。気づいたこと。気が向いた時に綴っていきます。

 

ゆらゆらとした幸せのカタチ


今年は、気づくとあっという間に春がやってきて、風のように駆け抜けて行っている様な感じ。

毎年、「もう春ですね。」「もうすぐ梅雨ですね。」なんて会話をして、時間と対面して少々の焦り。

日々の中にいると、いつも変化しているはずの考え方や感じ方あるはずなのに、同じ言葉を落とし込んでは自分自身に「忙しく生活してます」と言い聞かせて生活しているような気がします。



元気が無くなった時や、心に余裕がなくなってしまった時、想い出すようにする大切な出来事があります。



学生生活を終えた年。どうしても昔から自分の目で、肌で感じてみたかったアメリカ(LA)へ渡米。

現地では大学の言語コースに籍を置きながら、その他の時間を美術館やギャラリー巡りなどをしていました。

(結局は1年も居られなかったので、期間はそこまで長くはなかったのですが自分にとっては大の大冒険。少なからず自分の感じ方や価値観を考えさせてくれた、楽しいことも恐いことも色々と経験ができた良い時間だったと思っています。また何か想い出したら、それは別に書いていくかもしれません。)


昔から緊張しいで、不安になりやすい私。そして英語も大の苦手。

でもその時、このタイミングで行ってみるべきだと強く思っていたのでした。

新しい生活に慣れるのに、圧倒的に時間がかかることが多いのを自負している私。(それは日本でも同じなのですが^^”)

特に外国という場所で、数ヶ月は事あるごとに緊張の日々を過ごしていたように思います。

現地では当時、¥5,000程度でバス・地下鉄が乗り放題のチケットがあり、これは貧乏留学生にはうってつけ。それで行動を開始しました。

そんなこんなで現地に着いた時、初めて乗ったバスで、ここまで行きたいのですがと尋ねたら、怒られているような剣幕で、英語がマシンガンのごとく飛んできて、あわわわ。(あとで、彼はここで降りて乗り換えてって言ってくれていたことを理解しました。ありがとうと言いながら、心で理解力の無さに落ち込んで反省でした。)そして降りたバス停の付近は、地面も割れ、付近には落書きがだらけの車が駐車され、明らかに治安の悪そうな場所。

早く乗り継ぎのバスが来ないかソワソワしながら待った記憶があります。(ビビリな悪い癖で、通り過ぎる人が全て怖い人に見えてしまったり。。)

そんなこんなで、ステイ先に着いたら、ディナーをレストランに連れて行ってくれることに。疲れただろうし、それまで少し自分の部屋で休んでいてとのお言葉に甘えてベットにゴロン。気付いたら朝方5時まで疲れ過ぎて寝ていたようで。起こすのも可哀想なくらい爆睡していたらしく、せっかくの気持ちへの申し訳なさと、辿り着くまででどんなに緊張して疲れてたんだよと、この先少々不安に思いながら迎えた朝のことを想い出します。

それ以外にもバスや地下鉄だけで多々エピソードはあるのですが笑。それはまた機会があれば。

お恥ずかしながら最初はもう「子ども」というよりも、「赤ちゃん」状態のような余裕のなさでした。


でも、やっと少しづつ生活にも慣れてきて、毎朝バス停に向かう途中にすれ違う、お仕事に向かわれるハウスキーパーと思われる方と目が合うと、必ず笑顔で挨拶してくれて。それが嬉しく朝が始まったり。

同じ時間帯に乗るバスだと、同じおじいさん運転手になることも多くなり、近くに立っていると話しかけてくれたり。

自分が日本人だと伝えると、運転手さんはメキシカンで、前に観光で日本に家族と行ったことがあって浅草が楽しかったとか。

日本ではなかなか経験出来ないことに少しづつ楽しさや喜びを感じ出していきました。そしてクラス最後の日は、今日でバスを使うのも最後ですと伝えると、寂しがってくれてわざわざ握手してハグしてくれたのを覚えています。

そのような出来事に触れていく時、あまり日本では感じることのできなかった、こうなんというか。生活の中で、今自分はすごく生きているなぁと感じる瞬間が増えていることにも気付き始めました。(新鮮な場所に出向くと、そのような感情に出会うそれとも似ていますが、異国の空気はさらにそうさせてくれていたのだと思います。)


長くなってしまいましたが、ここからが本題。

お世辞にも上達はそんなにしていかなかった英語でも、少しづつそんな触れ合いと共に、毎日に少しだけ心に余裕を感じ始めた時でした。


いつも最初に乗るバス停の道路の向こう側。

ドアノブに風船がくくりつけられて、ゆらゆらと浮かんでいました。

確かに前からあった様に思いましたが、余裕のない時は視野も狭くなり、気にもならないものです。


そんなある日。その日は少し早めにバス停へ到着。

ゆらゆらした風船が、いつも通り浮かんでいました。

お店はポストカードなどが取り揃えられている、かわいらしいステーショナリーショップでした。でも特別宣伝の風船でもなく、ソレが取手に浮かんでいることに「なぜかなぁ」くらいに思いながら眺めてベンチに座っていました。


スカッとした青空と、カラッとした暑い陽気。湿気が少ない分、影になるベンチに座っていると風が吹いて爽やかに感じるのは、LA独特の空気感。

その目線の先に、赤い風船はその青にとても映えながら、ゆらゆら。

バスが遅れているのも忘れるくらい、とっても心地いい時間。


そんなことを感じていると、お店の前を、お母さんと、まだ5才くらいの女の子が親子で散歩している様子。

その女の子が風船を見つけて、手を上にあげながらキャッキャッはしゃいでいました。

その笑顔や仕草が愛くるしく見とれていると、お店の中からおばあさんが笑顔で出てきました。

少しその親子と会話をした後、最後にドアの取っ手から風船を外して、その子に手渡してあげていました。

女の子は満面の笑み、お母さんもおばあさんも嬉しそうで、それを道向こうで見ていた僕もなんかいいなぁと自然と微笑んでいました。


そしてその親子が去ったあと、おばあさんがゆっくりまたお店から出てきて、新たに膨らませてきた風船を取っ手にまた取り付けたのです。

こんどはエメラルドグリーンの風船が青空にゆらゆら。


あぁ、そうか。

別に取っ手に風船を取り付けなくてもいいのに。

これはおばあさんが作り出した幸せの空間。

そして子どもが向ける笑顔が、おばあさんにとっても幸せの空間になって。

そして全くそこに関係していない僕がたまたま目にして、僕にとっても幸せをお裾分けして頂いたのでした。


この様な幸せのカタチもあるんだ。

見ていないところに、見えないところに、気づかないところに、気づかれなくてもいいところに、だれも知らないところに。

実は誰かがそっと用意してくれている小さな幸せがある空間。

自分の気付いていないところで、それは日々のどこかに転がっているのかもしれないこと。

その光景を目にした僕は、異国の地で他にも色々な出来事があった中でも、この情景だけは心の中にしっかり残り、時々しっかりと思い出します。


余裕をなくしたとき、疲れたとき、気持ちががいっぱいいっぱいになったとき。色々と考え過ぎてしまったとき。

疲れたりすると、心がふさがりがちになったり、感じることを忘れがちになります。

それはしょうがないことだと思っています。

そんな時は焦らないで、少し思い出そうとします。

あの時見たおばあさんの作り出していた光景や、そういう場所、世界があること。そういう気持ちを感じられたこと。

すると少しまた、風船の様にゆらゆらと。

少しだけ軽くふわふわと進んでいければ良いかなぁなんて想ったりするのです。


実は、モノクロ画を多く描いている私ですが、Instagramなどのアイコンだけはその時の"赤い風船"と"青空"を思い出しながらアクリルで描いたものを使用しています。それはそんな気持ちと出会えたことを忘れないように。


選ばれた人にしかできない幸せ表現ではなくて、それは誰の手の中にもあって、その表し方が違うだけ。


僕は。

そっと寄り添えるなんて、簡単に言えること、伝わることではないと思っています。

でも、少しでもあのおばあさんが用意した風船の光景ように、何かの縁で目にした時、届けられる“何か”を制作できればいいなと、そんな気持ちを心の奥底でひっそりと灯しながら。

描いていければと思うのです。


tomo.



Comments


bottom of page